2008年12月10日

すこしのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。

0イワ
石清水の八幡宮

晩秋の石清水の八幡宮 2008年


仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石清水(いはしみず)を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年頃思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 すこしのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。
 
(現代語訳)
0ニンナジ0
仁和寺

 仁和寺にいたある法師が、年を取るまで、石清水の八幡宮に参拝したことがなかったので、それを残念に思い、ある時思い立って、たった一人で徒歩で詣でたそうだ。そして、ふもとの極楽寺や高良社などの付属の末社を拝観して、これで全て見終わっだ思い、帰ってしまったそうだ。其の後、仲間の法師に、「長年思っていたことを果しました。聞いていたのよりず〜と尊くあらせられました。それにしても、参詣していた人々がみんな山に登ったのは、山の上に何事かあったのだろうか。私も行こうとは思ったが、神様へ参詣するのが本来の目的だと思い、山の上の事までは見ませんでした」と言ったという。
 
 そういうわけだから、ちょっとしたことにも、指導者はあってほしいものだ。

仁和寺(春の彼岸) 2008年


▲解説 上記の訳だけでは良くわからないと思う。
山の上には何があったのだろうかが問題である。すなわち山の上の奥の院こそが石清水の八幡宮
のメインの建物、すなわち本殿であったのでした。

つまり入り口だけをつまみ食いして、知らずに本命を見ないまま帰路についたという話である。

だからガイドブックを持っていけばよかったのにと言っている。
それをもっと押し広げて「少しのことでも指導者に付いて教えを請う方がいいですよ」と言っているのである。

現在でも仁和寺はある。仁和寺に行くと日本人はおそらくこのはなしを思い浮かべ古を思い起すのに違いない。徒然草52段は石清水八幡宮の本殿が男山の山頂にあることや、麓の摂末社も相当に壮大な造りであることを知っていて、初めて理解できる逸話である。
現在では岩清水八幡宮へは八幡市駅前からケーブルが出ておりますので、間違いがないと思いますよ

余計な事だがこのはなしは作り話ではないかと思われる。
 「すこしのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしき事なり。」という事をいいたいがために考え付いたのであろう。
徒然草は1329年-1331年頃の成立とおもわれる。700年ほど前の随筆である。

★石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。二十二社の上七社の一つであり、旧社格は官幣大社。本殿など建造物9棟が国の重要文化財に指定されている。 また、本社は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。
名称未入力
祭神
以下の三神を祀り、「八幡大神」と総称する。

中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)
西御前 - 比淘蜷_(ひめおおかみ・宗像三女神)
東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)

歴史
清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、弘法大師空海の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。

以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。

また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。

当社の御神前で7歳の春に元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の源頼義が、河内源氏の氏神とした壺井八幡宮は、石清水八幡宮を源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したもの。また鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を勧請した鶴岡若宮にあり、源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し改めて石清水八幡宮を勧請したことを創始とする。

創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称し、東寺(教王護国寺)や清水寺、比叡山延暦寺、仁和寺、鹿苑寺(相国寺・金閣寺・銀閣寺)、大安寺など、多くの寺院との歴史的関連が深い。また、河内源氏と競合相手と考えられている伊勢平氏もこの社を重んじており、平正盛が造営の功を上げたことや平清盛ら伊勢平氏の主だった人々が八幡宮の臨時際で舞人を演じたとする記録が残されている。

明治時代(1868年)の神仏分離までは護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、寛永の三筆として知られる松花堂昭乗も八幡大菩薩に仕える社僧の一人であった。

1868年(明治元年)、仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は仲秋祭に改めさせられた。

1871年、官幣大社に列するとともに、社号を「男山八幡宮」に改名されるが、1918年には石清水八幡宮に復する。

また現代では、パナソニックの創業者でもあり「経営の神様」とも称された松下幸之助が深く信仰したほか、厄除開運、必勝、商売繁盛、家内安全などの御利益を願って全国から参拝者が足を運ぶ。

境内には、国の重要文化財に指定されている社殿をはじめ、楠木正成手植えの大楠(京都府指定天然記念物)や、織田信長奉納の「黄金の樋」「信長塀」などがある。


祭事
9月15日 - 石清水祭、放生会(葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭のひとつ)

境内外社

高良社(鳥居)高良神社、相槌神社、石清水社、大扉稲荷社、三女神社、水分社、広田社、生田社、長田社、住吉社、一童社、龍田社、貴船社、若宮社、若宮殿社、気比社、水若宮社など

付属施設 : 青雲寮、レストラン石翠亭、エジソン記念碑、鳩嶺茶園、 青少年文化体育研修センター(楠峯館(宿泊)、鳩峯庵(茶室)、清峯殿(式場・会議室・宴会場)など

文化財

建造物
重要文化財「石清水八幡宮 本殿及び外殿」
重要文化財「石清水八幡宮 幣殿及び舞殿」
重要文化財「石清水八幡宮 楼門」
重要文化財「石清水八幡宮 東門」
重要文化財「石清水八幡宮 西門」
重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」(楼門東門間)
重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」(楼門西門間)
重要文化財「石清水八幡宮 廻廊」(背面)
重要文化財「石清水八幡宮 五輪塔」
重要文化財「石清水八幡宮 摂社若宮社本殿」
重要文化財「石清水八幡宮 摂社若宮殿社本殿」
重要文化財「石清水八幡宮 摂社水若宮社本殿」
重要文化財「石清水八幡宮 摂社住吉社本殿」
重要文化財「石清水八幡宮 東総門」
重要文化財「石清水八幡宮 西総門」
重要文化財「石清水八幡宮 北総門」
重要文化財「石清水八幡宮 摂社狩尾社本殿」
その他、摂末社などが重要文化財に指定されている。

美術工芸品
重要文化財「石燈籠」 鎌倉時代
重要文化財「木造童形神坐像」

典籍・古文書
重要文化財「石清水八幡宮護国寺略記」
重要文化財「類聚国史 巻第一、第五」
重要文化財「石清水八幡宮田中宗清願文」
重要文化財「石清水八幡宮文書」 平安〜鎌倉〜室町〜桃山〜江戸時代

今昔物語集
謡曲『弓八幡』
謡曲『女郎花』
謡曲『放生川』

交通
最寄駅 : 京阪八幡市駅より男山ケーブル男山山上駅
駐車場 : あり(但し、西側の住宅街を抜ける必要があり、かなり判りにくい)

ギャラリー

竹林の前

本殿前の石灯籠

本殿



周辺情報
神応寺
松花堂
八角堂
正法寺
飛行神社

関連項目
柏原八幡神社 - 別宮
飯香岡八幡宮 - 別宮(上総国市原別宮 市原八幡宮)
紀氏
小侍従
源義家
源頼朝
足利尊氏
足利義満
織田信長
豊臣秀吉
紀家子
徳川家康
覚快法親王
松花堂昭乗
酒呑童子
源頼光
トーマス・エジソン
厄年

★仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院である。山号を大内山と称する。正式名称を旧御室御所跡仁和寺という。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」(おむろごしょ)の別名がついた。御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。また、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。“古都京都の文化財”の一部として、世界遺産に登録されている。

今日でも国内や外国人の参拝客・観光客の多く訪れる史跡であり、旧御室御所にて茶の湯を振舞う(有料)茶室も用意されている。

歴史
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。

仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川幕府により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。


伽藍

五重塔金堂(国宝)- 慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624年-1644年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として貴重である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気をよく残している。
御影堂(重文)−旧皇居の清涼殿の用材を用いて建設したもの。宗祖空海を祀る。
仁和寺御殿−仁王門から中門に至る参道の西側に位置する仁和寺の本坊で、宇多法皇の御所があった辺りに建つ。宸殿は近世初期の皇居・常御殿を移築したものであったが、1887年(明治20年)に焼失。現在の建物は明治時代末〜大正時代初期に亀岡末吉の設計により再建されたものだが、庭園とともにかつての宮殿風の雰囲気をただよわせている。
遼廓亭(重文)−江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷から移築されたもので、葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中ににじり口を開いているのが珍しい。
飛濤亭(重文)−江戸時代末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席で、腰をかがめずに入れるように鴨居の高い貴人口が設けられている。
その他、五重塔、経蔵、九所明神社本殿、御影堂中門、観音堂、鐘楼、仁王門、中門、本坊表門(以上重文)などがあり、大部分は徳川家光の寄進で寛永年間に整備されたものである。


文化財

国宝
金堂
木造阿弥陀三尊像−もと金堂に安置され、現在は寺内の霊宝館に移されている。仁和4年(888年)創建時の本尊といわれる。
木造薬師如来坐像−本坊北側にある霊明殿(仁和寺の歴代門跡の位牌をまつる堂)の本尊。1986年、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになり、1990年、国宝に指定された。康和5年(1103年)、白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師円勢と長円が造像したものである。本体の像高11センチ、光背と台座を含めても24センチほどのビャクダン(白檀)材の小像で、光背には七仏薬師像と日光・月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表わす入念な作である。
孔雀明王像(絵画)−中国北宋時代の仏画。
宝相華蒔絵宝珠箱(ほうそうげ まきえ ほうじゅばこ)−平安時代前期の漆工芸品。蒔絵の初期の遺品として貴重。
三十帖冊子・宝相華迦陵頻伽蒔絵ソク冊子箱(ソク=土へんに「塞」)(ほうそうげ かりょうびんが まきえ そく さっしばこ)−「三十帖冊子」は、空海が唐から持ち帰った写経の小冊子(サイズは縦横とも十数センチ)30冊で、一部に空海自筆を含む。古来、真言宗の重宝として尊重されている。付属の箱は朝廷から下賜されたもので、平安時代の漆工芸品として貴重である。
御室相承記−仁和寺の歴代法親王の記録。鎌倉時代。
高倉天皇宸翰消息−「宸翰」(しんかん)は天皇の直筆、「消息」は手紙の意。若くして死去した高倉天皇の18歳の筆で、同天皇の現存唯一の遺筆。
後嵯峨天皇宸翰消息−後嵯峨天皇の確証ある遺筆としては唯一のもの。
黄帝内経明堂2巻・黄帝内経太素24巻−中国の医学書『黄帝内経』(こうていないけい)の注釈書。「明堂」は鎌倉〜南北朝時代、「太素」は平安時代の写本。
医心方−日本最古の医学書『医心方』の平安時代後期の写本。
新修本草−唐時代の薬草に関する本『新修本草』の鎌倉時代の写本。

重要文化財

中門
宸殿の北庭建造物

「仁和寺」14棟(五重塔、観音堂、中門、二王門、鐘楼、経蔵、御影堂、御影堂中門、九所明神社本殿3棟、本坊表門、遼廓亭、飛濤亭)
絵画

絹本著色聖徳太子像
絹本著色僧形八幡神影向図
紙本白描及著色密教図像 17点
紙本墨画高僧像 1巻
紙本墨画四天王図像 1巻
紙本墨画弥勒菩薩画像集 1帖
紙本墨画薬師十二神将像 1巻
紙本墨画別尊雑記(図像入)57巻 
彫刻

厨子入木造愛染明王坐像
木造吉祥天立像
木造悉達太子坐像 - 当初「木造聖徳太子坐像」として指定。1991年に現名称に変更。
木造増長天・多聞天立像
木造文殊菩薩坐像
工芸品

住吉蒔絵机
色絵瓔珞文花生 仁清作 
銅製舎利塔・五鈷鈴・三鈷鈴・九頭竜鈴・五鈷杵
日月蒔絵硯箱
宝珠羯磨文錦横被
書跡典籍

絹本墨書尊勝陀羅尼梵字経(伝不空三蔵筆) 
紺紙金泥薬師経 光格天皇宸翰、済仁親王書継 
孔雀経 巻中下
十地経並十力経・廻向輪経
法華玄義 巻第二、第八 
如意輪儀軌
般若経理趣品
理趣釈 淳祐筆 
仁和寺黒塗手箱聖教 65巻、3冊、138帖、32通、16鋪、28枚
淡紫紙金泥般若心経 桜町天皇宸翰 
秘密曼荼羅十住心論(巻第六補写)10帖 
摧邪輪 2帖1冊
万葉集注釈 9冊
後鳥羽天皇作無常講式
後宇多天皇宸翰消息(五月十一日 御法号 )
後宇多天皇宸翰消息(徳治二年九月廿日)
後醍醐天皇宸翰消息(何事候哉云々)
後醍醐天皇宸翰消息(去夜心閑云々)
孔雀明王同経壇具等相承起請文
承久三、四年日次記残闕 
消息(高野御室消息 1通、華蔵院宮法印消息 1通、返事案 2通)
貞観寺根本目録(貞観十四年三月九日) 
法勝院領田地公験紛失状(安和二年七月八日) 


考古資料、歴史資料

仁和寺境内出土品 一括
日本図

御室八十八ヶ所霊場

御室八十八ヶ所、一番霊山寺1827年(文政10年)に、仁和寺第29世門跡であった不壊身院御室・済仁法親王が、四国八十八箇所を巡拝が出来ない人々のために発願し、仁和寺寺侍・久富遠江守に命じて、四国八十八箇所を巡拝して、各札所の砂を持ち帰らせた。仁和寺境内の成就山に四国八十八箇所を模して、同じ数の88宇の堂を設けて、持ち帰った砂を設けた堂に埋めたことが起源とされる。

成就山に四国八十八箇所霊場を小規模に再現した巡礼地である。各札所にあたる小規模な堂が約3kmの山道沿いに点在する。88宇の堂には実際の四国八十八箇所の札所の寺院と同じ本尊と弘法大師を祀ってある。成就山八十八ヶ所とも称される。

また、かつては「御室 仁和寺 成就山88ヵ所スタンプハイク」が仁和寺主催で年6回行われていた。


御室桜
仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いている。約200本あり、八重咲き。樹高が低いのは、この地の岩盤が固く、深く根を張れないためという。「花(鼻)が低い」ということから「お多福桜」ともいう。満開は例年4月20日過ぎと遅く、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾る。


授与品
御室桜でよく知られることから、授与品として桜がデザインされたお守りがある。また、造花ではない、植物の四つ葉のクローバーを使ったお守り「幸福守」がある。

毎月8日に限り、霊明殿の本尊・薬師如来にちなんで、薬師如来の縁日である毎月8日に限り、金堂前の寺務所に申し出ると、有料であるが薬師如来の御朱印を受けられる。


仁和寺を舞台にした映画
「名探偵コナン 迷宮の十字路」

アクセス
京都市営バス、京都バス、JRバス「御室仁和寺」下車すぐ。京福電鉄御室仁和寺駅下車徒歩5分。

普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。


参考文献
井上靖、塚本善隆監修、山本健吉、森諦円著『古寺巡礼京都11 仁和寺』、淡交社、1977
竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983
『週刊朝日百科 日本の国宝』14号(仁和寺)、朝日新聞社、1997
『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
『国史大辞典』、吉川弘文館

posted by Willie at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 心に残る言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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